やられたらやるでしょ。普通

右のほほを叩かれたら左のほほもダシナサーイ。

昔の偉そうな人は言いました。あなたの態度は凄いよ。相手戦意喪失でしょ。
気持ち悪くて。  
殴られてるのに、ニコニコして 「こっちもどうぞ☆」ってされたら ひく。

もちろん 殴り合いにならないようにするのが第一選択。
他人から殴られるってのも、何か問題ありなんではないんでしょうか?
それとも相手が 誰彼かまわず理由も無しに腕振り回してぶん殴りかかってるんでしょうか? 天然で??

あるえらい人がいたであろうし、彼がとても立派なことを言っていたとしても
伝言ゲームのように、伝え伝えし、そして誰かの都合のいいことを
書き加えたり、削除したりしたら オリジナルってナンジャラホイ?になる。

スズキ君が校庭でサッカーをする → 田中君がプールで頭打った

くらいの、メチャクチャな伝わり方。これじゃ非伝言ゲーム。

人間の最大の使命とは、「命を尊重し、人生を全うすること」だと
私は強く思います。 生きて、生き抜いて、考える。経験する。
そして、自分の命を大切にすることによってほかの命の大切さも学ぶ事。

殴られそうになったら 自分の身を守るために防御するでしょ?
命を全うする為に。
左のホホまで差し出したら 危ないじゃん。痛いし。やです。

自らは手は出さないけど、やられそうになったら逃げるか、防衛する。

やられそうになるってことの中には、体への暴力だけでなく、
安全を脅かされる事に対しての危機感、知識を洗脳されることへの危機感
なども含まれるわけで、

そういう漠然とした身ぢかな不安や危機感をマスコミなんかが
「そんな事より 遊ぼうぜ!」とか、「ほかからの脅威なんてないよ!」とか
「そんな事考えずに平和ヘイワ!」って、
根本的な不安要素を見ないようにして、上っ面だけ ハッピーです☆っぽく
振舞えなんていわれたら、「おかしいんじゃないの?」って思う。

スピもそうです。ただただ 平和で愛し合いましょう♪ってのも
危機感が解決済みの全く安全な場合だけであって、そんなの不可能だし、
動物本来の 危機へのアンテナって 放棄してはいけないでしょ。

じゃ、まず そういうことを言ってるお前からその手の棍棒を捨ててみろ。
話はそこからだ!と言うことになる。

体が傷ついたら 痛みを感じるのは なぜでしょうか?

答え、生命の危険を教えてるからです。

体でさえこのシンプルな機能を備えてる。
なぜに その危機感さえも悪とみなし、放棄しなきゃいけないの?

今そこにある危機を情報操作で見えなくされたくないです。

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